
先日、福井市に行く用事があり、ついでに丸岡城(福井県坂井市丸岡町霞町1-59)の観光をして来た。
個人的な事情で遠出の観光等が難しくなってしまったが、隣県の福井県であれば、日帰りができるので行き易い。また、なかなか上達しない水彩画を描いているが、観光地の写真を保管しておいて、水彩画が一定のレベルに達したらモチーフにして描きたい気持ちもあり、近場の観光をしてくる気持ちになった。
丸岡城の概要
今から450年前の1575年に、織田信長(おだ のぶなが)は越前(現在の福井県嶺北地方)の一向一揆を討伐するため大軍を派遣し、豊原寺(とよはらじ)を攻略した。信長はこの恩賞として柴田勝家(しばた かついえ)※1に越前之国を与え、勝家が北ノ庄城(きたのしょうじょう)を築いた(北ノ庄は現在の福井市)。
一方、丸岡城を築いたのは、柴田勝豊(しばた かつとよ)であり、1576年のことである。勝豊は勝家の甥であり(勝豊は勝家の姉の子と言われている)、勝家には子供がいなかったので養子になっている。

1948年の福井地震(マグニチュード7.1)により、丸岡城天守は石垣もろとも完全に倒壊している。しかし、幸いにも震災6年前に実施した解体修理の工事記録があったことから、柱や梁など主要部分の70%以上を再利用し、7年で震災前の姿に蘇り、現存天守十二城※2の1つとなっている。
丸岡城の特徴は、戦国時代に多く見られた古い建築様式である。
例えば、
例えば、
この古い建築様式は、既存の天守では希な存在であり、国の重要文化財に指定されている。
部位毎の解説
城の役割と部位毎の解説をする。なお、写真をクリックすると拡大する。
- 天守の役割
- 城のシンボルである天守は元々軍事施設であり、最終防御設備としての役割を持っていたが、時代が進むにつれて次第にその機能は薄れて行った。なお、天守に住んでいたのは織田信長ぐらいで、通常城主が住んでいたところは御殿である。
天守と石垣 - 石垣
- 「野面積み(のづらづみ)」と言う石垣初期の方式である。隙間が多く粗雑な印象を持つが、排水が良いので大雨でも崩れ難く、また揺れによる圧力が分散されるので地震にも強い。一方、敵兵からすれば、隙間を使って登り易い面もある(
対策として「石落とし」有り)。
なお、高さは約6.2mである。 石垣 - 石瓦
- 現在の天守には、4,500枚以上の石瓦を使用している。江戸時代は福井産の「笏谷石(しゃくだにいし)を使用していたが、昭和の修理で私の地元である小松(石川県)産の「滝ケ原石(たきがはらいし)」を使用している。
石瓦 - 構造
- 外観からは二階建てに見えるが、内部は三階建てである。1階と2・3階の間に通し柱がないため、1階が2・3階を支える構造となっている。なお、2階及び3階の床面積は1階の約1/3の12坪しかない。
1階 - 石落とし
- 壁面の一部を出っ張らせ、石垣を登ってくる敵兵に対して、敷板の穴から石を落下させたり、あるいは弓や鉄砲を撃つところである。
石落とし - 狭間(さま)
- 天守の壁面に開けられた小窓で、敵兵に向かって矢を放ったり、鉄砲を撃ったりするところである。
狭間 - 階段
- 1階から3階に繋ぐ2つの階段の勾配は共に約65°であり、全国的にみて珍しい急階段である。勾配がきつくて階段と言うより固定された梯子を昇り降りしてる感覚であった。手すりを持つより、手すりに沿って付いているロープを引っ張りながら昇り降りする方が安定する。
なお、利用しなかったので確かではないが、エレベータを目にした気がする(確認要)。 1階の階段 - 3階の窓
- 3階の四方壁面に大きな窓が付いていて、窓からの眺めは絶景である。戦いに於いては、敵味方の動きを良く捉えることができた筈である。
3階からの景色
本能寺の変で信長が亡くなると、信長の仇を打った秀吉と家臣団の筆頭格の勝家が激しく対立し、戦いが始まる。利家にとって、勝家は長年慕う父親的な存在であり、一方秀吉は若き日からの親友であり、利家は悩んだ末に勝家に見方することを決意する。
賤ヶ岳の戦い(しずがおかのたたかい)で、勝家は秀吉に敗れ正室のお市の方と共に自害するが、通説によると、賤ヶ岳の戦に於いて、利家は勝家を裏切り一線も交えず退却したために、秀吉の勝利に繋がり、その後利家は秀吉の元で出世し80万石の大大名となったとされている。
しかし、近年になり通説を覆す、次の説が注目を集めている。
利家は秀吉に寝返り一戦も交えず退却したのではなく、勝家の勝利に力を尽くそうとしていた説である。と言うのも、古戦場の近くに利家の家臣である横山長隆(よこやま ながたか)の墓があり、乙夜之書物(いつやのかきもの)にも、「利家軍はしばらく防戦し、横山長隆など歴戦の家臣が討ち死にした。」と記載されているからである。
追撃を受けながら、何とか城まで退却した利家は城で討ち死にする覚悟をするも、秀吉から見方に引き入れたいと申し出があり、誘いに応じ秀吉方に加わることになった。ではなぜ、秀吉は利家を攻め滅ぼさずに見方に引き入れたかと言うと、秀吉は利家の算術の才能を高く評価していたからである。この頃の秀吉は、検地を自身の領土だけでなく全国に広めようとしていたので、利家の才能は検地を進める上で欠かせないと考えていたとのこと。
なお、現存天守は、創建された当時の天守がそのままの形で保存されていなくても良く、例えば次のような天守も該当する。